なぜ、「本番に弱い男」がIT大手の営業エースになれたのか?
名古屋市内の高級焼き鳥店に来ている。店主とは友だちだから、とこの店をインタビュー場所に指定してくれたのは愛知県内のメーカー勤務の藤沢純一さん(仮名、48歳)。店主自ら摘んできたという山菜の小鉢が出たりしてうれしくなるが、あまり値段が張ると困るな……。ビクビクしていたら、藤沢さんは筆者の予算をお店側に事前に伝えてあるという。おかげで予算の範囲内で楽しく飲み食いできた。大らかさと気遣いが同居しているような人物だ。
現在の勤務先では広報チームの一員として働く藤沢さん。出身も愛知県だが、この老舗メーカーのプロパー社員ではない。県内の私立大学を卒業後、大手IT企業の子会社にシステムエンジニアとして入社し、リクルートエージェントと大学職員を経て、2022年の春に現職に至っている。失礼ながら一貫性のあるキャリアとはいえないが、本人は「圧倒的な仕事量と雰囲気で何とかしてきた」と振り返る。いわゆる転職活動とも無縁。仕事をやり切ったうえで次を決めずに退職し、友人・知人の紹介で転職先を見つけてきたという。はやりのリファラル採用である。
「僕は採用試験などの本番に弱くて、高校も大学も受験に失敗して志望校に行けませんでした。僕が19歳のときに他界した父親からは公務員になれと言われていたので、本当は小学校教員になりたかったんです。でも、入れた大学では小学校の教員免許を取る課程がなく、しかたなく高校教員を目指していました」
新卒で入社3年目にIT業界の主戦場である東京へ
漢文の単位を落として高校教員の免許すら取れなかった、と明かす藤沢さん。同級生がやっている就職活動のまね事をしていたら面白くなった。
「当時、パソコンの2000年問題が騒がれていてシステムエンジニアの需要が高かったのを覚えていますか? 文系でもなれる技術職だと知ってカッコいい!と思ったんです」
筆記試験は不得意だが面接には強い藤沢さん。大手3社から内定をもらい、そのうちの1社に新卒入社した。しかし、システムエンジニアなのにプログラミングが苦手だとすぐに発覚した。
「僕が得意なのはプレゼンと営業です。回り持ちで担当する朝のスピーチをやったときに、営業部隊から『あいつが欲しい』と言ってもらって、そこからは技術営業みたいな職種になれました。お客さんに寄り添ってその課題を改善し喜んでもらうことにはすごくやりがいを感じましたね」
人を喜ばせることに自分も強い喜びを感じる――。藤沢さんは早くも適職の糸口を見つけたともいえるが、仕事以上に大切なものがあった。母親という唯一の家族だ。
「僕は一人っ子です。実家に一人きりの母ちゃんを置いて遠くには行きたくありませんでした。でも、仕事を頑張っていたら、3年目に『東京に行け』と命じられてしまったんです」
入社3年目の社員が辞令を断われるはずもなく、藤沢さんはIT業界の主戦場である東京に向かった。働き方改革などが始まっていない時代のことである。想像を絶する過酷な労働状況が待っていた。
年収1000万超えのキャリアアドバイザーに
「かなり理不尽なのですが、僕たちは地方の子会社なので、東京の顧客企業に直接営業してはいけないんです。各地方の子会社が東京本社にプレゼンをして営業の権利を勝ち取らねばなりません。オリンピックの国内予選みたいなものですね。人手も少なかったので、朝8時半から深夜3時まで働く毎日を休日返上で10カ月も続けたことがあります」
まさに圧倒的な仕事量である。本社やグループ企業へのプレゼンテーションや根回しも欠かさなかった藤沢さんは成果を積み上げ、3年後には本社への移籍を打診されるようになった。
「それは嫌だな、と思いました。理由は2つあります。僕はITにはあまり興味がないことがわかったので、40歳、50歳になってもこの業界で働くイメージはわきませんでした。もう1つの理由は、本社の営業部隊は提案力がないこと。お膳立てはすべて僕たち子会社がやって、本社の人たちは『この会社はあの人がキーパーソンだから飲みに行く』的なルートを知っているだけ。僕はもっとちゃんと営業をやりたいと思いました」
藤沢さんは当時28歳。前年には愛知県内の女性と結婚をしており、名古屋に戻りたいという希望も強まっていた。
会社の同期に紹介してもらったのがリクルートエージェント。言わずと知れた大手転職エージェントだが、藤沢さんは転職先を紹介してもらうのではなく、同社のキャリアアドバイザーとして名古屋での営業の最前線に立つことを選んだ。
「前職とは違って、人のふんどしで相撲を取るような人が誰もいない環境が心地よかったです。やったらやった分だけお金ももらえます。僕は全社のキャリアアドバイザーで売り上げ2位になったりして、30歳のときに年収1千万円を超えました」
その収入のおかげで実家を建て替えることができ、母、妻、長男、次男との5人家族で仲良く暮らせた。藤沢さんの一つの絶頂期ともいえる。
収入半減でも家族を優先。リファラル採用で見いだした第二の天職
家族を大切にしつつ、会社では猛烈に働いて実績を出す藤沢さん。再び東京行きの辞令が下った。31歳のときだ。全国転勤は大手企業総合職の宿命なのだろう。しかし、独身だった前回とは状況が違う。2人の息子はまだ小さく、母親とも同居している。念のために妻に単身赴任を打診したところ、「ないっしょ」と一刀両断。藤沢さんはリクルートエージェントを退職することを決めた。
「退職日まで全力で仕事に向き合いたかったので、次の働き口は決めていませんでした。何とかなるだろうと自信過剰だったのもあります」
藤沢さんの場合は実際に何とかなった。リクルートエージェントの後輩が愛知県内の大学で職員として働いていて、「うちに来ませんか?」と誘ってくれたのだ。
「キャリア支援の仕事ならばやりたいと思いました。就職相談室のおじさんですね。僕自身は学生時代にキャリアという言葉すら知らずに就職をして、結果オーライで突っ走ってきました。でも、若い頃からちゃんと考えて動くに越したことはありません。キャリアについて教えるならば、教員になる夢もかなうと思ったんです」
しかし、その大学に就職すると年収はリクルート時代の約半分にまで下がってしまう。妻に相談したところ、今度は背中を押してくれた。「今までの収入がいつまでも続くとは思っていなかったので、収入の半分ぐらいのお金で暮らしていた。だから、何も変わらないよ」と答えたのだ。なお、母親は2011年にステージ4のがんを患いながらも9年間も生きて家族に見守られながら亡くなった。すべての世話をしてくれた妻には頭が上がらない、と藤沢さんはしんみりと話す。
猛烈営業で「定員割れの大学」を救うも理事長と衝突
キャリア相談という大学にとっては出口の部分を担った藤沢さん。すぐに喫緊の課題に気づいた。その大学は不人気が続き、入学者が毎年定員割れ。すでに少子化が始まっており、出口よりも入口がほころびていたのだ。
「このままでは職場がなくなってしまうと思い、志願して入試広報センターに移りました。僕が力を入れたのは近隣の高校への営業活動です。やるからには徹底的にやりましたよ。高校3年生一人ひとりのヨミ表を作りました。うちの大学が第一志望だという子はA、競合の私立大学に落ちたら入る子はB、公立大学に落ちたら入る子はC、志望校が決まっていない子はDです」
リクルート流の猛烈営業に反発する古参の部下と闘いながら働き続け、5年後には志願者数を元の水準に戻したという藤沢さん。その力量を認められ、大学を含む学園全体の経営にも関わるようになり、最終的には理事長と衝突してしまう。
「大学の移転を担当していたのですが、移転先に公営ギャンブルがあることが理事会などで問題視されました。こちらから移転を中止するのは体裁が悪いので難癖をつけて先方から断られるように仕向けろ、と理事長に指示されたんです。『それは人としてどうなんですかね』と僕は言ってしまい、ケンカになりました」
藤沢さんはお守りとして持っていたという退職願をすぐに提出。2021年の冬のことだった。
異能の室長にほれ込み、未経験から挑む広報の道
普段は朗らかで穏やかな藤沢さんだが、組織人としては熱すぎる血を持っているようだ。しかし、無職になっても何も言わない妻からは「起業だけはやめて」と釘を刺されている。
「自分の会社だと性格的に休まずに仕事をして早死にしそう、という理由です」
前回と同じように「次」を決めずに大学を退職し、2カ月ほど無職状態だった藤沢さん。会いたい人に連絡して毎日のように会い、「勢いで辞めちゃったけれど、次に何をしようか迷っている」と率直に明かした。このときも頼りになったのはリクルート時代の元同僚たちだった。
「彼らは人材紹介のプロなのに、仕事じゃないところで動いてくれたのが何よりうれしかったです。起業した人が自分の会社に誘ってくれたり。結果的に6社ぐらいからオファーをいただきました。すべてリファラル採用です」
藤沢さんの実力と社交性を示すような転職方法である。紹介された会社の一つが現在の勤務先だった。
「まずは社長や役員と面接して内定をもらったのですが、僕の経歴が生かせる部署がなかなか見つかりませんでした。最後に会ったのは、広報室の室長です。その人も中途で入り、マーケティング部門から独立してユニークな広報をやろうとしていました。僕はなんだかうさんくさい人だなと思ったのですが(笑)、話していて20分後ぐらいに『君、いいね! 一緒にやろうよ!』と誘われたんです。僕は営業には自信がありますが広報の経験はありません。理由を聞いたら、僕が『今ないものは作ればいい』と言ったことが室長の心の琴線に触れたみたいです」
行き当たりばったりで切り開くキャリア
半信半疑で広報室の一員となった藤沢さん。実際の業務は、まさに世の中に存在しない広報手法をゼロから作っていくような内容で、今までの社会人経験で一番成長できていると感じている。
「何よりもすごいのが室長です。一見するとゆるいキャラクターなのですが、極めてロジカルでアウトプットの質も半端ない。何事もパワーと行動で押し切ってきた僕とは正反対です。とても勉強になっています」
猛烈に働きたい藤沢さんだが、このメーカーは「ウルトラホワイト」企業なのだと笑う。勤務時間は朝8時から午後5時まで。残業する人は皆無。採用面接の際に室長と午後6時ごろまで話し込んでいたところ、社長自らやってきて「私もそろそろ帰りたい。会社の出入り口を閉めていいか?」と言われて驚愕した。ちなみに年収はリクルート時代と大学職員時代の間ぐらいに落ち着いている。
自宅から通える働きやすい会社で、尊敬できる上司にも納得できる収入にも恵まれている藤沢さん。ただし、このメーカーの商品に関してはプロパー社員ほどの思い入れはないように筆者は感じた。藤沢さんの経歴は業務内容も職種もバラバラで、リファラル採用といえば聞こえはいいが、悪く言えば行き当たりばったりのキャリアともいえる。
息子たちに語り継がれる男になるために
藤沢さんにとっての仕事の軸は何なのだろうか。インタビュー場所のお店で独創的な焼き鳥を食べ終えて、締めの小ラーメンを注文しながら聞いたところ、「死んだ親父ですね」との答えが返ってきた。
「重厚長大系の大手メーカーに高卒で入り、技術職をしていました。不本意で営業職に回されて、口下手な親父はすごく苦労したようです。52歳で亡くなった一因かもしれません。リクルートで活躍していた頃の僕は死んだ親父に勝っている気がしていました。でも、僕が40歳のときに北陸の会社の社長さんが突然に訪ねて来て、親父の墓参りをしてくれたんです。新工場を造るときに親父が中古の安い機械を探して来て、床をキレイに掃除をしてから設置した親身で誠実な姿が忘れられない、と話してくださり、10万円も香典を置いていかれました。僕も人に良い影響を与えたいと思って働いてきましたが、親父に完敗したと思い知って震えましたね」
藤沢さんの息子たちはともに高校生。10年後には立派な社会人になっているはずだ。そのころ藤沢さんは父親の享年を超えており、もしかするとこの世にいないかもしれない。
「僕が死んでからさらに10年後にも息子たちに僕の話をしてくれる人がいるのかどうか。それが親父との勝負であり、仕事の軸です。僕は奥さんと息子たちに尊敬されたいんですね」
家族から尊敬される社会人になるためには、勤務先の名声や収入ではなく、働く姿勢と仕事仲間からの評価が重要だ。一時的な好業績を上げるよりも難しいチャレンジであり、藤沢さんは社会人人生を賭けたロマンに挑戦しているともいえる。
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