転職が当たり前の時代となり、誰しも一度は経験するようになった「退職」というキャリアイベント。昨今は退職代行サービスが注目を集めるように「波風を立てず、黙ってフェイドアウトしたい」と考える人もいるのではないだろうか。しかし、リクルートワークス研究所 主任研究員の古屋星斗氏は、そうした「対話なき退職」は “もったいない辞め方”だと指摘。では、将来のキャリアの可能性を広げる「戦略的な会社の辞め方」とはどのようなものなのだろうか。
世は「帰り新参」の時代
誰しも一度は転職を経験するようになった昨今、会社の「辞め方」にはどのような傾向があるのだろうか。古屋氏に尋ねると、「新天地や新しい機会を求めての“ポジティブ退職”と、今の職場から逃げ出したいという“ネガティブ退職”が共存していることは、今も昔も変わらない」と言う。
そのうえで「変わっているのは辞め方。退職代行サービスの勃興が象徴していますが、元の職場に黙ってフェイドアウトしてしまう“対話なき退職”が増えてきている印象です。これは非常にもったいないことだと思っています」と続けた。
“対話なき退職”がなぜもったいない選択なのか。その理由は「今は『帰り新参』の時代だからです」と明言する。「帰り新参」とは古屋氏が愛読する、時代小説家・池波正太郎の作品にも出てくる言葉で、一旦離れた組織で再び採用され働く人を指す。人材不足が進む現代において、アルムナイ(同窓生)採用、出戻り採用という名で、「帰り新参」は民間企業はもちろん官庁含め、かなり一般的になってきた。
「帰り新参が当たり前になってきている今、辞めた会社はその人にとって大変重要な意味を持ちます。その会社が正真正銘のブラック企業で金輪際関わりを持ちたくないならともかく、そうではないのなら、辞める前に立ち止まって考えてほしいんです。その会社のメンバー全員と関係を断ったまま、去ってしまっていいのだろうかと。関係を断ってしまえば帰り新参になれる可能性は低くなりますし、将来、困ったことを相談できる相手や、仕事を一緒にするパートナーを失ってしまうかもしれないのです」
退職時に10人の先輩と話をしよう
退職は、辞めようとしている会社の人と関係性を深める絶好の機会だと古屋氏は言う。しかし、腹を割って退職理由を伝える人は想像以上に少ない。
リクルートワークス研究所「若手社会人の在職理由定量調査」(2025年実施)によると、人事や上司に退職理由を伝えた退職経験者の割合は75.5%と全体の約4分の3に上る。しかし、そのうち「すべてを伝えた」と回答した人は27.4%、つまり、全体の4分の1強にとどまった。
古屋氏自身も転職経験があり、前の職場は経済産業省だった。その退職直前、仕事上で関わりのあった先輩十数名に一対一の会食に誘われたり、あるいは自分から誘ったりして対話の場を持ったという。
「彼らの私への接し方がとても新鮮でした。同じ職場の後輩という目線ではなく、他の組織に片足を突っ込んでいる『後輩の社会人』という、広い視野で接してくれました。次の仕事について話すと、役立ちそうな本を推薦してくれたり、激励の言葉をかけてくれたりする人がいました。大好きで尊敬する先輩たちと退職前にきちんと会話する機会を持ててよかったと思います」
逆に、嫌味を言ってくる相手だったらどうすればいいのか。「私の場合も、『お前の将来は危うい』とネガティブなことを言ってくる先輩がいました。でも、それも含めて人間関係を整理するいい機会になりましたね。これからも付き合いたい人、付き合いたくない人がはっきりしましたから」
たとえ嫌味を言われたとしても、それはそれで貴重な経験になる。「自分の転職は間違っていなかった」証明として誇りを持ち、「前職は大変な職場だった」と将来誰かに話せる面白いネタができたと思えばいい。
「いざという時に頼りになる師匠のような先輩を1人でも2人でも持つというのは、人生の大きな糧になります。そして、そんなかけがえのない存在が見つかるチャンスが、退職時の対話にあるのです」
仕事満足度も年収も上がる退職術「コミットメントシフト」
昨今はやりの「対話なき退職」に対し、「対話ある退職」を勧める古屋氏が、もうひとつ、会社の「辞め方」を提唱する。それが「コミットメントシフト」というやり方だ。
「ある日を境に前の会社を辞め、別の会社に転職する」のではなく、業務委託や副業や兼業、プロボノといった働き方を経由し、少しずつ別の会社やプロジェクトに携わり、徐々に“コミットメントを移していく”キャリア戦略のことだ。
転職というキャリアチェンジには、「実際に働き始めないと職場環境がわからない」という大きなリスクが付き物だと古屋氏は言う。転職希望者が知りたいが知りえない情報として、『配属される部署の雰囲気』『レポーティングラインの上司や部下の特徴』『キャリアパス』の3点が挙げられる。この3点は、“働く前に知ることが困難”だが、特に前の2点については“働けばすぐにわかる”要素でもある。だからこそ、コミットメントシフトは、転職後の「こんなはずじゃなかった(リアリティショック)」を防ぐのに有効な手段だ。
実際、古屋氏の著書『会社はあなたを育ててくれない』に掲載されたデータ(※リクルートワークス研究所での分析)によると、コミットメントシフトを経てキャリアチェンジをした人と、経ずに通常の転職をした人の転職後の状況を比べると、「1年間で仕事がレベルアップした」という割合が、通常の転職では29.0%だったのに対し、コミットメントシフトの場合は47.1%と非常に高くなっている。
仕事への満足感も高い。「仕事そのものに満足していた」人の割合は、通常の転職は39.1%だったのに対し、コミットメントシフトは59.9%に上る。年収への変化にもよい影響が生じている。転職をはさんだ年収増加率を見ると、通常の転職者の1.3%に対し、コミットメントシフトを経た人の上昇率は11.4%と大きく上回っている。
さらに、コミットメントシフトは自社の魅力を再発見するきっかけにもなる。「若手社会人への調査から、社外での活動を行っている人のほうが自社のことが好き、という傾向が強いことがわかっています。そういう意味では、コミットメントシフトによって、辞めるかもしれない職場の魅力や、そこで働く人のすごさを再認識できる。実際、辞めることになったとしても、前職のよい面をしっかり理解したうえでの退職はその後のキャリアによい影響を与えるはずです」
“ターミナル駅”のような社員の活用を
「フェイドアウト型の対話なき退職を招いてしまうのは組織側にも問題がある」と古屋氏は指摘。転職が盛んではなかった10年ほど前まで、多くの日本企業には新卒絶対主義が浸透し、転職者とはいわば組織の“裏切り者”であり、“脱走兵”扱いだったという。
「辞める際は波風立てず、目立たぬように去るのがこれまでの転職者のお作法でした。ところが、これだけ人手不足の状況が続くと新卒絶対主義が崩れ、転職が当たり前になるどころか、帰り新参が優遇されるようになってきた。これからは転職者の脱走兵扱いをやめたうえで、出戻り社員を快く受け入れる風土づくりも欠かせないでしょう」
そのために企業は何をすべきか。古屋氏は人事による退職者インタビューなどを強化する必要があるとしつつ、「それだけでは退職者の本音をすくいあげるのは難しい」と言う。
「まったくのプライベートで、多くの退職者とのコミュニケーションを絶やさない“ターミナル駅”のような社員がどの組織にも数名いるはずです。彼らの知恵や力をもっと借りてはどうでしょうか」
そして古屋氏は最後に、これから退職という転機を迎える個人に対してこうエールを送る。「辞めた瞬間の気持ちと、1年後の気持ちは変わる。でも、前職との関係性は退職した瞬間に決まってしまいやすい。後悔のないように、自分のためにこの機会を最大限に生かしてもらいたいです」
退職をフェイドアウトで終わらせるか、次なるステップにするか。個人にとっても企業にとっても、そのあり方をしっかり考えてみる必要がありそうだ。
(取材協力=古屋星斗、構成=荻野進介)