戦争には「悲惨」以外の見方がある

戦争に関して誰かがなにかを語り、メディアが伝えるときには、いかに残忍で悲惨で浅はかな行為であるかが強調される。「日本は唯一の被爆国」という言葉や、夏の高校野球のテレビ中継でかならず放送される8月15日の終戦記念日の黙祷などは、そのような集団的心象を象徴している。この姿勢は絶対的に正しい。「破壊と殺戮はよい行為だ」「どんどんするべきだ」とは誰も思わない。武力攻撃は人間性の否定と冒瀆であり、モノと自然と命の蕩尽であり、愚の骨頂である。

だが個人の記憶レベルになると、戦時の楽しい記憶がよみがえることがある。微笑みながら「もしもしカメよ」と口ずさみ、歌を教えてくれた兵士タナカの今を気遣う心持ちは、自分とはなんの関係もない、いわばとばっちりともいえる交戦をけっして喜んではいないものの、非日常のなかの日常の一場面では、子ども心に楽しさがあったことの証左である。

戦争をこのような視点からみたことはなかった。戦火を生き延びた父母と祖父母から断片的に聞く話は「食べるものがなくて生のドングリを食べた」「東京から着の身着のまま岡山に疎開した」などの定番化した苦労話ばかりだった。なので「楽しかった」という話はとても新鮮でインパクトがあった。30年以上も前の話なのにいまだにその光景を鮮明に再現できるのは、モノやコトを違う視点から見てみることの驚きがあまりにも強烈だったからだろう。

78回目の原爆忌を迎えた朝、平和記念公園の原爆死没者慰霊碑を訪れ、祈りをささげる人たち。奥は原爆ドーム=2023年8月6日午前、広島市中区
写真=時事通信フォト
78回目の原爆忌を迎えた朝、平和記念公園の原爆死没者慰霊碑を訪れ、祈りをささげる人たち。奥は原爆ドーム=2023年8月6日午前、広島市中区

社会学の本質=「違う視点でものごとをとらえる」

字面だけをみると社会学はとても簡単そうだ。なにせ「社会」を「学ぶ」のだから、「社会について考えるのだろう」とすぐに了解してしまう。しかも対象となる「社会」はあまりにも見慣れ、聞き慣れたコトバだ。

大学入試で面接を担当するとき、「社会学ってどんな学問だと思っていますか」と質問することがある。すると多くの受験生は胸を張って「歴史とか政治とか社会問題とかを考えることです」と答える。その声を聞くたびに、笑みを保ったまま少しがっかりする。

核心はその部分にはないからだ。

ではエッセンスはなにか。パプアニューギニアで出会ったあの老人が、すでに教えてくれている。彼は社会学を生きているといえるのだ。

社会学の心髄、一番重要な部分は「従来とは異なった視点で対象を捉える」ことにある。このことをもう少し深く考えてみよう。