高い所得を得ても、労働時間が長ければ、余暇を楽しめない。所得と労働時間がどんなバランスであれば「最も幸福」なのか。北海道大学大学院の橋本努教授は「多くの研究者がこの問題に取り組んでいる。そのうち参考になるのは、所得が増えても幸福度は上昇しない、という『イースタリンのパラドクス』だろう」という――。(第2回)

※本稿は、橋本努『「人生の地図」のつくり方』(筑摩書房)の一部を再編集したものです。

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「幸福の損益分岐点」はどこにあるのか

私たちは、いったいどれだけの収入があれば、満足できるだろうか。

人生には「幸福の損益分岐点」というものがある。年収が高くても、激務をこなさなくてはならないというのでは、割に合わない。反対に、仕事が楽でも、年収が低ければ満足できない。では私たちは、どの程度働いて、どの程度の年収を稼ぐことができれば、満足できるのか。その分岐点について考えてみると、意外と難しい。

例えば年収300万円の人が、激務をこなすことで年収1000万円を得たとしよう。その人は、年収1000万円を維持するためなら、どんなに仕事が辛くても耐えられると感じるかもしれない。ところがしばらくすると、その幸福感は元の水準に戻ってしまうだろう。というのも人間は、幸せに慣れてしまう習性があるからである。

幸福感の上昇は、それほど長くは続かない。最終的には幸福感は、年収300万円のときの水準に戻ってしまうだろう。すると、年収300万円から年収1000万円へと収入がアップしたとしても、その生活はしだいに割に合わなくなる。激務が続く一方で、生活の満足度が低下していくからである。幸せの収支は、マイナスになってしまうかもしれない(*1)

さらに悪いことが起きるかもしれない。年収1000万円の生活をすると、今度は年収300万円のときの生活に戻れなくなってしまう。いったん生活水準が上がると、その生活水準を下げることに大きなストレスを感じるからである。年収1000万円を、なんとかして維持したい。ところが年収1000万円から得られる幸福感は、しだいに減っていく。これは悩ましいジレンマだろう。

(*1)木暮太一(2018)『働き方の損益分岐点』講談社+α文庫、206-208頁